今、思うこと

AAFC 連続エッセイ
投稿日
2013/11/01
執筆担当
渋谷 賢三郎
 

2010年にAAFCクラブに入会する迄は、自分と音楽との関わりがどの様なものだったのか?考えたことも無く、獏然とした記憶だけで纏まっていませんでした。
良い機会を与えて頂いたので少しずつ思い出しながら現在の心境も知って頂きたいと思います。

昭和7年1月(1932年)神田で生まれました。
小学校4,5年の頃、音楽室でアイネクライネ、月光、運命、魔王、新世界などを聞き、その美しさと力強さに呆然として先生にせがんで何度も聞かせて貰いました。
中1の時にラジオで聞いたベートーベンのVn協奏曲(クライスラー)に感動したので大学生の兄に聞きたいと話すと友達から二組借りてきて聞き比べをしました。

その後は戦争で焼け出され音楽どころではありませんでした、戦後はラジオでショパンなど旧敵国の音楽も聴けるようになりました。

1950年18才で日本橋の繊維問屋に入った日に、明日から過酷な小僧生活が始まるとゆうのに暢気に口笛を吹いていると先輩が『君その曲何だか知っている?』と聞くので『ショパンのポロネーズですけど』と答えましたが、話しの合いそうな人が居ると思いとても気が楽になりました、その時の彼の妹が今の妻です。

彼の友人がS P レコードの収集家だったので野村あらえびすの本を頼りに毎週2,3曲借りては返すの連続でした、これが私の音楽鑑賞の原点で今でも二人に感謝しています。

SPレコードは(らんぶる)や銀座の(ウエスト)などでコーヒー1,2杯で粘りました。
45回転のLPを銀座のエチユードで聞いた時は衝撃を受けました、何としてもこの音を聞きたいと人形町の電気屋の息子に頼みプレヤーやアンプを作ってもらいました、少しずつ改良してアームやカートリッジ、スピーカーを替えるとモーターのゴロが出るなど次々と改良する まるで蟻地獄のようでした。

1952年頃は第一生命が買ったスタインウエイのピアノを吊り下げた写真が新聞に出る程で、未だ日本経済も音楽界も水準が低く、SPで名演奏を聴いていた生意気な私はあまり音楽会にいく気になりませんでした。

日比谷公会堂でNHKになる前の新交響楽団を育てて、戦争中アメリカへ帰っていたローゼンストック初帰国のブラ1を聞きました、開演まえから聴衆も演奏者も指揮者も燃えに燃えて記憶に残る熱い演奏会でした。

54年にはハイフエッツ(食べて5千円の月給の時に千円)、バックハウス、シゲッティ、ケンプ、カラヤンNHK(五百円)、戦前の名バリトン、ゲルハルト・ヒッシュの冬の旅など忘れ難いものでした。

初めて外国のオケを聞いたのは55年、後楽園球場でトスカニーニ没後の指揮者無しの楽団で、ワーグナーのマイスタージンガー前奏曲でした、本場のオケの美しく重厚な響きに圧倒されました。
藤原義江だけが真ともで他は学芸会の様なカルメン、椿姫など今のレベルとは大違いです。

55年はオイストラッフ、56年ウィーンフィル、ミュヒンガーのシュツットガルトなど厚生年金会館ではザンデルリンクのスターツカペレ、プリンツのウィーン室内、ベルガンサなど外国の演奏者もボツボツ来始めました。

1961年に上野文化会館が出来てからはアルゲリッヒ、ベロフ、スメタナ、ホリガー、シェリング、ブリユッヘン、ルプー、ツィメルマンなど一流の演奏家が来日し始め、ドミンゴの道化師、ドレスデンのワルキユーレ、ディースカウのフィガロ、ミユンへンオペラ、メトロポリタンなど本格的なオペラを観ることが出来る様になりました。
SPやLPで聴いた憧れの名演奏家が初来日するのでケチケチと金を溜めては聴きに行っていたのでしょうが良く行けたものです。

1973年にやっとガラード401、SME3012,3009、オルトフォンGTE、ラックスSQ38FD、タンノイⅢLZに落ち着きましたが60万位しました。
LPはアメリカ兵の中古を京橋堂で、新盤は人形町で買い、その後CDの名曲は海賊盤で頭数を揃えました。

80年代になると地域との関わり、育児、テニスなどに気持ちが傾き、コンサートは大分減り関心は録音に移り後に録画になりました。
90年代の始めにサントリーホールへ行って日本フィル(渡辺暁雄)を聴いて感動したので定期会員になり数年後にはNHK会員にもなりました。

97年国立オペラ劇場が出来たのでプレミア会員になり大分通いました。
’02バレンボイム率いるベルリン国立オペラが来てワーグナーのリング連続演奏会がありました、迷いに迷いましたが二度と聴けないと思い、飛び降りました。良かった。

’06年頃から腰痛が始まり遠いホールへは行けなくなり上野の文化会館の東京都フィルに絞りました。それでも途中まで行ってから帰りの辛さを考えて切符を無駄にした事も多々ありました。今なら切符の嫁入り先はいくらもあると思いますが。

‘11年に脊柱管狭窄症で1週間入院しましたその時持っていったのが数千円のプレヤーと百円ショップのヘッドフォン、選んだCD十数枚、余り当てにしていなかったのにこの音に引き込まれました。60年前にSPを聴いた時の様に、つくづく音楽に親しんでいて幸せだなぁと思いました。(しかもこの粗音で)

腰痛がなくなったのでホール通いも復活しました、特に今年の9月はスカラ座のファルスタッフ、10月はイ・ムジチ、チェコフィル、11月はベルリン、ウィ―ン、コンセルトへボウ、イザべラ ファースト他にオーケストラ2、室内楽1と盆と正月が一緒に来ました。
当てにしなかったのが取れたり、貰ったりですが、聴きたいものがあったら行ける内に行こう、後悔先に立たず!!の心境になりました。

病院のベッドに寝ていると色々と考えます、自分が年齢を重ねると回りも年をとります自分だけ丈夫でもダメな様です。
目下の目標は出来るだけテニスを続ける。ダメなら歩く。歩けなくなったらホールはいけない。AAFCには最後までしがみつく。家から出られなくなっても良い音で聴きたい。

最近目の調子が悪くなり来年あたり入院の可能性がありそうです。偶々CDプレヤーが壊れまし、同じ頃小さくて適度に重い、音の良い持ち運びの出来るCDプレヤーに出会いました。此れにスタックスのアンプとイヤースピーカーを繋げばもう安心と思っていますが、さて思惑どおりにいくでしょうか?(勿論入院したくありませんが!)

何か年寄りの自慢話のようでお見苦しいと思いますがお許し下さい。

次は大先輩の脇田さんにお願いしました、有難うございます。

 

以上          

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